築地浴恩園、神宮外苑……徳川300年の社会インフラを50年で壊した東京の都市計画

東京の再開発で注目されている神宮外苑と築地市場跡地。しかし、この2つの再開発をめぐっては自然破壊という共通した問題点があるという。水際を愛した永井荷風の足跡を辿りながら東京再開発について検証する。

山下努2024/04/15

桜の季節は花見客で賑わう隅田川・墨田区向島周辺

作品に描かれたさまざまな「際」

荷風の生き様や作品は、現在の女性から見ると「際物」だろうが、荷風はもう一つの際物、東京の水際を愛して止まなかった。しかし、その当時の川沿いの姿は失われてしまった。
荷風が水際を書いた書物は多い。
随筆『夏の町』から、1935(昭和10)年の随筆、『深川の散歩』死の直前にまとめた1959(昭和34)年の『向島』、1955(昭和30)年の随筆集『水の流れ』など。
荷風の水際賛美の原点に、1909(明治42)年の『すみだ川』がある。

その後の戦争や震災で景色はガラリと変わり、1935(昭和10)年にやっと1897(明治30)年代の風景を記した『すみだ川序』を書いた。この中で荷風は「東京市中の街路は到るところ景観を失っていた」と嘆いている。
1918(大正7)年には、荷風は喧嘩をして出て来た大久保の実家を売り払った。その後移り住んだのは、中央区築地3丁目11(京橋区築地2丁目30)で、そこは築地本願寺の北西辺の路地にあたる。築地小劇場や新富座、見番、待合、料理屋などが並ぶ花柳界の外れ、麻布の「偏奇館」に移るまでここで暮らした。

墨東という言葉は荷風が作ったらしい。
コロナで都立墨東病院が有名になったが、墨田区と城東区(江東区)辺りを指すと思いがちだが、実は荷風にとってはその指すところは違う。

1937(昭和12年)、荷風は満を持して『濹東綺譚』の朝日新聞連載を始め、その名を全国に知らしめた。
ベースとなったのは、荷風の日記、『断腸亭日乗』だ。ここでは現在の荒川(当時は荒川放水路)を歩き回った。
大正12年には小名木川にかかる高橋から行徳まで汽船に乗り、途中で降りて放水路を歩いている。ここで、「今日見たりし放水路堤防の風景はいかにも20年前の墨堤に似たり」と書いている。隅田川東岸は今も桜の名所である。
荷風の生きた時代は、まだ東京の水運が生きていた。

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この記事を書いた人

山下努

山下努経済アナリスト

元朝日新聞経済記者、英字新聞「ヘラルド・トリビューン朝日」記者。不動産など資本市場の分析と世代会計、文化財保護に高い関心持ち、執筆活動を行っている。『不動産絶望未来』(東洋経済新報社)などペンネーム・共著含め著書多数。

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