築地浴恩園、神宮外苑……徳川300年の社会インフラを50年で壊した東京の都市計画

東京の再開発で注目されている神宮外苑と築地市場跡地。しかし、この2つの再開発をめぐっては自然破壊という共通した問題点があるという。水際を愛した永井荷風の足跡を辿りながら東京再開発について検証する。

山下努2024/04/15

永井荷風 1954年5月19日 木村伊兵衛撮影
『木村伊兵衛 写真全集 昭和時代』第2巻 [昭和20年~29年]1984年、筑摩書房

永井荷風を虜にした東京の水辺

東京・江戸は葛飾北斎もほれ込む姿庭園のガーデンシティだったのである。そんな水辺は、明治~昭和期、永井荷風を虜にした。
そんな荷風と再開発で摩天楼になることが決まっている築地は浅からぬ縁のあるところなのだ。

というのも、荷風は3度、築地で居を構えた。前にもいったように、築地は居留地があり、文明開化の「水際」だった。
若き、真面目時代からの逃亡に苦戦していた荷風は結婚してみたものの、性に合わず、それを巡って家族に嵐が吹きすさんだという。
そんな1915(大正4)年)に築地2丁目(当時の京橋区築地1丁目)に引っ越した。
今でも築地1丁目の裏路地は、荷風が住んだ街並みをよく残している。その後、銀座の芸者の身元引受人となり、柳橋(台東区浅草橋)に引越ししたが、1917(大正6)年に、木挽町(現在の銀座7丁目16)に「無用庵」を構えた。
そこは、新橋演舞場の西側で、現在の朝日新聞社にも近い。そんな縁からか、荷風が街並みを残すため、朝日新聞に『墨東綺譚』の連載を始めたことは面白いエピソードだ。

洋行した荷風は、隅田川やその河口付近の浮世絵や錦絵の研究でもつと有名だ。

明治以降も『築地門跡ノ遠景』や『新富座』を描いた井上安治や小林清親の水辺の錦絵を愛した。
荷風には、岩波文庫に『江戸芸術論』という著書があり、浮世絵の山水画と江戸の名所について記している。そこでは『絵本隅田川両岸一覧』を作って、河口までの隅田川の美しさを語っている。

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この記事を書いた人

山下努

山下努経済アナリスト

元朝日新聞経済記者、英字新聞「ヘラルド・トリビューン朝日」記者。不動産など資本市場の分析と世代会計、文化財保護に高い関心持ち、執筆活動を行っている。『不動産絶望未来』(東洋経済新報社)などペンネーム・共著含め著書多数。

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